妻を介護した夫「く」様の語り

認知症の妻を在宅介護していた夫の語り

 現在水曜日に一時間生活援助の人がきてくれて、茶の間、トイレ、お風呂(二週に一回)、自室、玄関を掃除してくれる。一月一二七五円。妻を自宅で介護していた時は身体看護もやってもらっていた。それは週2回で二四五二円と安かった。

 今、自分は要支援一で、処方してもらっているのは睡眠薬、腰痛の飲み薬と湿布、腰痛はすべり症でブロック注射とかを打ってもらっている。妻を介護していた時はまだ自分は介護保険を受けていなかった。妻が亡くなってここ一年でこのような状況である。

 妻の介護を私がするようになったのは私が面倒をみるといったから。近所のクリニックの先生が往診をしてくれていたので自宅療養をしていたが、妻に少しでも楽をさせたくて入院させ、その病院で肺炎で亡くなった。在宅で看取りをと思っていたのに、まわりの方たちから入院を薦められた。

 介護の時は車で妻を病院に連れて行っていた。また入院中も、何があるかわからないのでもちろん車を離さなかったが、亡くなってからは、免許を返した。今は車を運転できる人に手伝ってもらって買い物をしているが、車がないと本当に不便である。ホームセンターまでは家から歩いて十分くらい、整形外科は七、八分である。

 妻は歩くことに手助けが必要だったので、老人クラブに行く時は車いすで行った。妻には毎日一時間介護の人が来てくれていたし、クリニックの医師の往診も月一回あった。訪問看護師は週一回の時もあればそうではない時もあったが、在宅での最期の半年は毎日来てくれた。認知症のケアは以前のほうが大変だった。友人の女性に反抗心や嫉妬心などを抱いて、包丁をもって出かけていったこともあり、あわてて追いかけた。靴をそろえておいたのに、朝にはぐちゃぐちゃになっていたり。夜間に徘徊があったのだと思う。歩けなくなってからはそういったことはなくなった。

 一人で介護していた時に一番大変だったのは精神的なこと。誰にも相談はしなかったし、誰に相談すればいいのかもわからなかった。認知症のこともよく知らなかった。

 勤め先は昔の国鉄、退職後の職場に勤めていた時に妻が発症した。五九歳の時に働いていた(高速のインターン)健康検査で、肝硬変が分かり入院した。結局は十年近く面倒を見ていたことになるが、最期三年間が在宅療養で最初の時の介護度は一か二だった。入院した時は毎日会いに行っていた。

 介護には愛情が一番だと思う。介護するようになって、そうした想いはより深まった気がする。

 介護の情報は本や週刊誌、認知症の記事等をファイリングしていた。

 月に一回、近所の高齢者センターで行われる介護の会に行くようになり、妻も連れていった。ここで初めて介護に関して相談することができるようになった。近所には認知症の介護をしている人はいなかった上、介護にマニュアルなどがあるわけではないから、今後私と同じように家族介護をする人は大変だと思う。

 結局、最後は人から薦められて妻は入院をさせてしまったが、結局は病院で誰にも看取られることなく、ひとりの時間の時に亡くなったので、まるで病院内孤独死のようなものであった。死ぬのがわからなかったのかという気持ちをその時は感じたが、今は気持ちを切り替えていかないと、と思っている。

 子供は男の子、孫も長男に男の子が二人いる。長男は同居しようと言ってくれるが、断っている。妻の介護の時は子供も時々来てくれた。子供に迷惑をかけたくないと思っているが、自分が死ぬときは希望としては、しっかり別れを言ってから死にたい。もちろん、これまで生きてきたこの家で死にたい。

介護語り、看取り語りの影法師 (背景となる知識を参考図書から説明します)

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