母を看取った娘「か」様の語り

老衰の母を娘が看取った語り

 母は六七歳で夫を送ると、毎年、夏は札幌の私の家に来て、冬は東京の兄の家で暮らすようになった。六〇代に血圧が高くなり体力が弱っていたので。勤勉な性格で、趣味の俳句作り( 五〇代に成人学校で学び、本州と札幌の句誌に出句) や、読書と家事手伝い( 庭の草取り、朝食の後片付けなど) に励むうち、体力も少しずつ回復して小旅行もできるようになった。

 七〇代には私が夏休みに参加する研究集会について来て近くの史跡など訪ね、句作の参考にした。しかし八一歳の松山行きが最後になった。帰途、千歳でJR に乗る時転んで肩の骨にひびが入り、治って東京に帰ったが、交差点で人にぶつかられてまた転び、大たい骨骨折で入院、その後二年間リハビリに努めたが杖が離せなくなった。お風呂が嫌いになって入れるのに苦労した。介護用品の店ができた頃なので、洗髪盥やシャワー椅子、畳ベッド、アルミ製の介助車なども求めた。

 兄が『雲母』の掲載句をまとめた句集を作ってくれたが、吟行や句会に出かけるのが困難になったので、冬は札幌の方が屋内は暖かいからと引き取り、八七歳の時、兄の家の改築を機に住民票も札幌に移した。翌年の春、曾孫の誕生祝いが最後の上京となった。

 毎月句誌に投稿するのも難渋するようになったのでこの頃に打切り、以後購読だけにした。薬缶を空だきすることがあったりして次第に家事手伝いからも撤退。月二回、血圧測定に通院するほかは、新聞を読んだり、テレビを見たりする日々となった。なかなか朝起きなくなり、私の通勤時刻が迫って困惑することも多くなったが、夫は、小さいとき亡くなった実母と同年だということでよく世話してくれた。夫も出勤する日は一人になるので、シルバー人材センターに相談して、週一―二回「見守り」にきてもらった。作っておいたお弁当を食べさせ、適当な頃合いにトイレに連れて行ったり、話し相手をするなどで、私の退職前後の三年半に六〇万円ほど支払った。

 デイケアなどの相談に訪ねた最初の施設では通所区域が違うと言われ、ようやく訪ねて手続きを調べ「お試し入所」を打診したら、母は「行きたくない」と拒否した。足が不自由になったので一人で外に出ることはなかったが、失禁が始まり、夜、屋内徘徊することもあるので、最後の二年余りはベッドの側にポータブルトイレを置き、私が隣の部屋のカーペットにマットを敷いて「見守り睡眠」をとった。

 私が定年退職してから半年ほど、近所に買い物に出かける時くらいはひとりで留守番できたが、次第に人影がないと不安になってうろうろし躓くこともあり、翌年にはゴミ捨てもままならぬようになった。人がいると安心して何時間でも椅子に座っているのだが。食事は少しずつ細くなり、排せつも大変になった。私を娘と認識できなくなったのはショックだったが、最期の前夜、ベッドで目覚めて「あんた方には世話になったね」と挨拶してくれた時は気持ちが和んだ。

 一九九八年、元旦は祝ったが二十日過ぎから急速に食べなくなり、寝たきりになった。好物の牛乳も吸飲みで少しずつ、リンゴはすりおろしてとらせた。通院先の医師が往診して栄養剤を点滴してくれた。二月には入院先を紹介するつもりだったらしい。

 研究会に看護婦長を務めた人がいて、「終末期の患者は何より家族に看取られたいのよ」とよく言っていたので電話をかけたら、「そろそろだね。孝行だね。看取った家族は達成感があるので、がんばりなさいよ」と励まされた。そのときはなんともいえない濃密な感情だった。何度この話をしてもその都度涙ぐんでしまう。

 最期の夜は「淋しいの、添い寝しようか」「うん」というので手を握って見守り、二時過ぎ熟睡したのを確かめて寝た。八時過ぎ目覚めたので声をかけ、吸飲みでリキッドを飲ませたがこぼすので、綿花にひたして吸わせた。正に「末期の水」となった。一時間ほどして息遣いが荒くなったので医師に電話、一時間後に来てくれた。しかしこの間いよいよ息遣いが荒くなり、上半身を起こして抱え、夢中で頬をたたいたり背中をさすったりしたが、大きく息を吐いて静かになった。往診時はすでに絶命、完全な老衰、自然死ということだった。

 な介護部門のサポートでありがたかったのは、訪問看護婦による無料の入浴介護で、亡くなる前の一ヶ月半に三回来てくれた。ひとりでほんとうにきれいに世話してくれた。「見守り」に来てくれたシルバー人材センターの方の紹介だったかもしれない。

 お風呂の滑り止めのマットが半額になった「福祉のモデル事業」という領収書が残っているがこれは数千円のもの。ともかく介護保険前のことで何もかも初体験だから大変だった。私は退職後も忙しく、子供もいないので、自分の終末期のことは考えたことはない ( 考える暇がない) 。

 ただ、母を見ていて「趣味や役割をもっているとボケない」というのはうそだと思う。趣味や役割をもっていてもやれなくなる人もいるのだ。八十余年間和服しか着なかったのに着られなくなって、着せてもらうようになることもあるのだ。私もお端折りを省いてつい丈や二部式に仕立ててもらった。ひょっとしたら気づかぬうちに母は脳に血栓ができたり、細い血管が切れたりしていたのではないかと、後に夫婦で話し合ったりした。

 母は骨粗しょう症で背中が曲がり、三〇センチ近く背丈が低くなったが、最後まで字を読むのが好きで、大きな声で新聞など一生懸命に読むのは子供のように可愛らしく、たくさん笑いの種を遺してくれた。

介護語り、看取り語りの影法師 (背景となる知識を参考図書から説明します)

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