夫を妻が看取った「あ」様の語り

肺がんの夫を妻が看取った語り

 一月に手術をして、痛みが来て肺がんの再発がわかった。その時がステージ二で初期だった。どんどん痛みが増していき二月に再検査したら再発していて、手術もできない状態になっていた。抗がん剤も効かなかった。主人が入院している状態が嫌だということで、先生が自宅に来ていただける在宅介護を選択した。五つの病院を紹介していただき、そのうちの一つが在宅が可能ということだったため、本当に在宅を選択した。だから初めは何にも知らない状態だった。しかしその時は、悪くなったら病院に診てもらえるので、最後まで家でとは考えていなかった。自宅に先生が往診してくれるという認識でいた。最後は病院という考えしかなったためか、先生から看取りの最期はこうですよ、最期まで支援しますと言われていたはずなのに、その頃はちゃんと聞いていなかったのだろう。ただ家に帰りたいというのは夫の意思でもあったので、在宅療養には迷いはなかったが、結局あと一週間と言われた時に、病院に戻す気にならなくなったことで在宅の看取りとなった。

 介護の経験については、義母、義父、おじ、母と病院で見送ったが、医療的な経験や資格はなかった。この中で最後に亡くなったのは義母だが、十四年前で病院死だった。その頃には自宅で看取るというのはあまり聞いたことがなく、そのような提案も病院からはなかった。今回の在宅介護は知識がなく、少し不安だったが、健康だったからできた。もう少し年を取って体力がなくなったらきっと看ることはできなかったと思う。

 入院中、夫は病院の食事を嫌っていたので、毎日、自分の家で作ったものを病室に持ち込んで食べてもらっていた。夫は私の作る料理が大好きだったので、家に帰りたいといっていた。しかし在宅にした頃、主人は全然ごはんが食べられなくなってしまい、アミノアプリのAHCCというものをお世話になっていた在宅のクリニックから頂いて飲むようになった。食欲がすごく出てきて、またご飯がおいしいと朝昼晩食べるようになった。最後まで食べることができたのはこのAHCCのおかげではないかと思う。

 看取った期間は2ヶ月位。病院でレントゲンを撮っている間に先生と看護師長から秋くらいにはダメかな、という話を聞いた。

 一人で支えることに不安が少しあった。相談するとクリニックの看護師は私たちがいるから大丈夫と言ってくれた。夫の介護度は、ケアマネージャーさんが審査に来てくれた時は歩けて話せたので、在宅を開始した時点では一だった。しかしそこからは転げ落ちるように悪くなり、八月のお盆までは二階の仏壇までいけたものが、お盆過ぎてからは、もう上がれなくなってしまった。トイレは十月の初旬までは自身で歩いていくことが できたし、亡くなる一週間までちゃんとしたごはんは食べていた。のどの通りが悪くなってきたので、ラーメンの小さい器に麺とねぎだけ刻んで食べさせようとしたら、自分で食べ、それが最後の食事になった。

 子供がいなかったので、私たちは二人で仲良く生きて、一緒に泣いてきた。看取りの時も、今日は泣く日決めて二人で一日中泣いている時もあった。入院していた時は自宅から四十分ほどの病院で、本や、聞きたい音楽・落語を病院によく持って行ったが、私が病院から帰宅する前に、病院の夫から電話が来るぐらい、いつも私といっしょに居たいという人だったから、在宅になった方が夫も良かったし、私も見舞いに行く必要がなくなり、体は楽だった。それに夫は家の猫たちをとてもかわいがっていたので、猫のいる家に帰りたかったのだと思う。

 医療費は最高限度額で確か毎月八万円くらいだった。しかし一日五、六時間、訪問看護師さんが来てくれたので驚いた。夫が亡くなってからも時々連絡をくれる。

 夫の不安は死についてのことだったが、訪問看護師さんは、そういった質問に慣れているようで、的確に対応してくれた。

 私は一人暮らしなので、もし今後自分が癌を宣告されたら、施設にお世話になろうと考えている。また成年後見人制度を利用することにしているので、既にその人選もしている。

介護語り、看取り語りの影法師 (背景となる知識を参考図書から説明します)

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